藪内家の歴史

藪内家の歴史

藪内家の歴史

藪内家は茶家として現在十四代を数え、四百余年の歴史を伝えていますが、その流れを大きく五つに区切ってたどってみます。

流祖藪内剣仲紹智は武野紹鷗(たけのじょうおう)の最晩年の弟子で、「紹」の一字を頂いています。また縁の道具も伝えられています。兄弟子千利休の勧めもあり、大徳寺の春屋和尚に参禅し、文禄四年(1596)春屋(しゅんのく)和尚より「剣仲」の道号を授かっています。また、剣仲は利休及び古田織部との親交が深く、利休から茶室「雲脚」をいただいており、織部から茶室「燕庵」と露地・表門等賜っています。

当初、藪内家の住まいはまだ現在の地でなく下長者町新町のあたりにあり、ここで剣仲は92年の生涯を閉じています。藪内家が現在の地、西洞院正面に移ったのは、二代月心軒が代を継いで13年後の寛永17年2月(1640)です。西本願寺十三世良如(りょうにょ)上人へ茶菓を献じて以来、今日に至るまで、正月7日には門主へ献茶が続いています。

月心軒は屋敷を現在地に移した後、次第に藪内家の基礎を固め、師家相続を世襲として一子相伝を伝えることになりました。利休や織部とともに茶の湯の基盤を形成したのが剣仲、藪内流の基盤を形成したのが月心軒と、草庵の茶と書院の茶を併せもっている藪内家の原点の百年余りといえます。

三代雲脚亭、四代蕉雪斎と師家を世襲相続していますが、五代不住斎は女婿として藪内家に迎えられました。不住斎は多くの著書を著し、それらは資料としても、茶道に対する指針としても今もなお貴重なものとされています。六代比老斎、七代桂隠斎、八代真々斎ともそれぞれに書、作陶などに優れた才能を現し、それらは現在の茶会でも重要な道具としての位置を占め、この百年余りが藪内流としての充実の時代といえます。

九代宝林斎はちょうど明治維新のころに代を継ぎ、厳しい時代を守り、十代へと引き継ぎました。十代休々斎、十一代透月斎の時代は明治、大正時代の近代茶道黄金時代の一翼を担い、現在の藪内流の組織的な基盤を築いています。この時代は全ての文化がそうであったように藪内流も近代文化の花開いた時代といえます。

十二代猗々斎は戦中、戦後の困難な時代を乗り越え、門人組織の「竹風会」を立ち上げ、昭和五十一年に国の重要文化財に指定された茶室「燕庵」を維持する「財団法人藪内燕庵」を設立するなど、流儀の組織化を図り、十三代青々斎は、アメリカ、オマーン、ネパール、フランスなどで茶の湯を通じた国際親善を行い、茶の湯の国際化に寄代しました。

今、十四代允猶斎が次の時代につながる新たな期を築いています。


藪内家 歴代家元系譜

流祖 藪中斎剣仲紹智 (1536~1627)

藪内家 歴代家元系譜

藪内流一世の紹智は遠祖藪宗把(やぶ そうは)の養嗣で藪中斎剣仲と号した。茶を養父に学び、ついで武野紹鷗(たけのじょうおう)に師事して、師より紹の一字を貰って紹智を名乗った。利休とは同門、相弟子となる。天正7年(1579)、利休の勧めもあって剣仲は大徳寺の春屋和尚に参禅のため上洛し、大徳寺に近い洛北紫竹村に居を定めた。そして天正9年には利休より茶室雲脚を贈られている。剣仲の道号は文禄4年彼が61歳の折、春屋より賜ったものである。剣仲の妻は織部(おりべ)の妹であり、その媒酌人が利休である。宗把や紹鴎を介して結ばれた利休と剣仲の間にはこのように強い親愛の情があった。文禄4年頃屋敷を下長者町新町に移している。寛永4年没。92歳。

二代 月心軒真翁紹智 (1577~1655)

二代 月心軒真翁紹智

月心軒真翁と号した。寛永10年頃、聚楽第の遺構飛雲閣が西本願寺に移築され、西本願寺宗門の権威が高まるにつれて、様々な接待が必要となり、月心軒は十三世良如上人に招かれ、寺領の土地を与えられて、寛永17年(1640)2月に現在地に屋敷を移し、流儀の基礎を固めた。正保元年(1644)正月7日、月心軒は初めて門主に献茶菓を供し、以来嘉例となって今日に及んでいる。また、月心軒の代に及んで初めて世襲の師家相続となり、藪内流と称するようになった。また、千少庵とも親交が深く、少庵ゆかりの品々が伝来している。

月心軒には4人の男子があり、次男は南部相馬家へ、三男は阿波蜂須賀家へ、四男は熊本細川家へ代々出仕している。承応4年没。79歳。

三代 雲脚亭剣翁紹智 (1603~1674)

三代 雲脚亭剣翁紹智

月心軒の子、雲脚亭の道号は大徳寺の天祐紹杲より与えられ、54歳で師家を相続している。雲脚亭が20代の頃、京の町には蹴鞠が流行し、雲脚亭もこれに熱中し、遂に清水の舞台で蹴鞠の会を行って、町奉行のお叱りを受けていることで、その熱中ぶりが偲ばれる。また、香もたしなんだらしく、入手した名香を良如上人に献上し、龍蘭営と名付けられたという口上書を御用人から戴いている。ちなみに雲脚亭の次男了智は肥前鍋島藩に茶頭として出仕している。 延宝2年没。72歳。

四代 蕉雪斎剣渓紹智 (1654~1712)

四代 蕉雪斎剣渓紹智

雲脚亭の子、蕉雪斎剣渓と号した。蕉雪斎を取り巻く世情も手伝ってか、蕉雪斎は世間との交際よりも、家の中の取り締まりや、弟子の稽古、佐賀鍋島家に仕える兄了智との交わり、さらには本願寺への出仕等に没頭している。この間には加賀前田家にも繋がりができた。

このように蕉雪斎一代にあっては他流派との交流もなく、世俗的な華々しさはないが、専ら伝統の護持に努めたようである。正徳2年没。59歳。

五代 不住斎竹心紹智 (1678~1745)

五代 不住斎竹心紹智

美濃大垣の医師南條玄斎の末子、不住斎竹心と号した。蕉雪斎の室は実姉にあたり、蕉雪斎の女婿として藪内家に迎えられた。高い学識と豊かな文筆の才を有しており、中興の祖として茶道界全体への影響も大きかった。不住斎には「真向翁(まむきのおきな)」「源流茶話(げんりゅうさわ)」等18巻に及ぶ著述があり、その代表作とされる「真向翁」は茶道の正邪を論じたもので、当時の茶道が邪道に堕ちたのを嘆き、門を閉じ、世俗との交わりを絶ったことの真意を明かしている。

正徳4年(1714)に織部100回忌、享保11年(1726)に剣仲100回忌、元文5年(1740)には利休の150回忌を勤め、侘び茶の心を再確認している。

外にあっては不住斎は、手造りの茶碗で北野天満宮万燈会(まんとうえ)に献茶を勤めている。また本願寺門主寂如上人の要請によって、本願寺の奥庭に赤壁の茶室「須弥蔵(しゅみぞう)」を好んでいる。延亨2年没。69歳。

六代 比老斎竹陰紹智 (1727~1800)

六代 比老斎竹陰紹智 

竹心四天王の一人である北尾春倫の甥で、不住斎の養子となり六代を継ぐ。比老斎竹陰と号した。

書を池大雅に学び、謡曲や和歌に長じ、作陶にも秀でていた。円山応挙とも親交があった。

寛政2年(1790)に利休の200回忌を大徳寺で営み、同年、六条堀川にあった珠光ゆかりの佐女牛井の井戸を再興している。この井戸はかつて織田有楽が修理してから100年目にあたるので、有楽の追善のために、大火で荒廃したものを再興したのである。 比老斎は本願寺十八世文如上人に「茶法口義」2巻を呈上しているが、文如上人は比老斎に深く傾倒され、比老斎の画像に賛を与えられている。

このようなことは本願寺としては前例のないことで、以来、歴代家元の肖像には代々門主より賛が与えられることになった。また比老斎には養子の通玄斎参翁紹予(つうげんさいさんのうじょうよ)(俳諧の祖、松永貞徳の末裔)、並びに実子の珍牛斎紹庵(ちんぎゅうさいじょうあん)があった。寛政12年没。74歳。

七代 桂隠斎竹翁紹智 (1774~1846)

七代 桂隠斎竹翁紹智 

もと大和郡山藩の武士で桂隠斎竹翁と号した。比老斎亡き後、後見人として迎えられ七代を継いだ。比老斎が石州はじめ諸大名と交わり、大きく外へ発展していったのとは対照的に、桂隠斎は比老斎の跡をとりまとめ、家の修理や土蔵の新築など内部の仕事はもとより、妙喜庵の修理などにも貢献している。手造りにもひいでており、壷廬棚など好み物を残している。その間には流祖剣仲の200回忌や織部の200回忌、さらには利休の250回忌も大徳寺で行っている。この頃、珍牛斎紹庵は江戸千石橋畔に居を構え、藪内流の発展に努めている。弘化3年没。73歳。

八代 真々斎竹猗紹智 (1792~1869)

八代 真々斎竹猗紹智

通玄斎参翁の子で桂隠斎の養子となり、八代を継ぐ。真々斎竹猗と号した。 真々斎の時代は明治維新の頃で、京都はその動乱の中にあって物情騒然としていた。真々斎は専ら流門の護持に努め、相伝書の検討や流儀作法の確立を心掛けている。

安政5年の秋ごろより皇女和宮の茶道指南役を勤めている。和宮御降嫁の際に調度品として茶道具一式を御用命により謹製している。

元治元年(1864)7月20日、元治の兵火で家屋は焼失したが、慶応3年には皆伝を許されていた摂津有馬結場村の武田儀右衛門の建てた燕庵写しの茶席が藪内家に移築され、また、本願寺御門主の御力添えを得て茶室緝凞堂(しゅうきどう)、須弥蔵が下賜され旧態に復することができた。明治2年没。78歳。

九代 宝林斎竹露紹智 (1811~1874)

九代 宝林斎竹露紹智

珍牛斎紹庵の子で宝林斎竹露と号した。幕藩体制から明治新政府へと時代は大きく転回していった時期で、茶家としては受難の時代であった。宝林斎は家元をついでわずか5年に過ぎなかったが、心労の多い一生であったにも係わらず、近代茶道の護持に尽力した。明治7年没。64歳。

十代 休々斎竹翠紹智 (1840~1917)

十代 休々斎竹翠紹智 

福田氏、名は宗添、もと加賀大聖寺藩の御典医で茶堂でもあった。宝林斎の急逝にあたり藪内家に後見人として迎えられ、休々斎竹翠と号した。宝林斎の遺児、常弥(のちの十一代透月斎)、乙弥(のちの節庵)を養育し、専ら家にあって稽古に熱中した。  明治11年12月1日、初めて北野天満宮神前で公開の献茶をすることになった。休々斎は雅楽の音に合わせて献茶を行い、その点前を規定した。以来北野天満宮の献茶は藪内家と、三千家の輪番制となり今日に至っている。休々斎は晩年大阪吹田に隠棲し、福田姓に復している。大正6年没。78歳。

十一代 透月斎竹窓紹智 (1865~1942)

十一代 透月斎竹窓紹智

宝林斎の長男。透月斎竹窓と号した。岡山曹源寺の師家、枕流軒(ちんりゅうけん)老師に参じた。老師は非常に厳格な人で、大徳寺に招かれて京都に来たが、大徳寺には入らずに高野川畔に庵を建ててそこに起居した。透月斎はこの庵へ3年にわたり通っている。師匠1人、弟子1人の厳しい修行で、時には火箸で打たれることもあったという。参禅のかたわら漢籍と書を山本亡洋に学び、画は森寛斎に師事した。昭和17年没。78歳。

十二代 猗々斎竹風紹智 (1904~1979)

十二代 猗々斎竹風紹智 

太平洋戦争の最中に39歳で代を継承した猗々斎は、戦中戦後の困難な時代を、忍耐強く道統を守り、また、新しい時代に即応した家元の体制の確立や、門人の全国的組織作りなどの新しい試みを晩年になって次々と成し遂げた。

昭和43年には東京稽古場を開設し、昭和45年の万国博覧会には五家元と共に日本庭園の茶席を担当した。また、著述や放送を通じての普及にも熱心で「茶道入門」や当流機関誌等に健筆をふるい、NHKの放送には毎回必ず自ら出演し、藪内流茶道の普及に努めた。

昭和49年には門人の全国組織「古儀茶道藪内流竹風会(こぎさどうやぶのうちりゅうちくふうかい)」、昭和52年には財団法人藪内燕庵の設立と、今日における藪内流の組織の基礎を確立した。昭和54年没。75歳。

十三代 青々斎竹仲紹智 (1936~2018)

十二代 猗々斎竹風紹智 

猗々斎の長男。青々斎竹仲と号した。昭和54年、父猗々斎の逝去に伴い、13代家元を襲名した。

猗々斎とともに立ち上げた組織をより強固なものとし、その目は海外にも向けられた。昭和63年、アメリカのワシントンナショナルギャラリーでの「茶道展」を開催し、平成13年にはオマーン、同14年にはネパールへと赴き茶会を行った。また、同20年には、フランスのパリで、茶会を開催した。国際化が叫ばれる中、茶の湯を通じて、諸外国との親善を行った。

青々斎は国際舞台での華やかな活動を行う一方で、「古儀茶道藪内流の特色ある茶風を、正しく広く世間に知っていただく努力は怠るべきではないが、門弟のことさらな拡張を目的としてはならない。各個人の茶の質を高めることこそ大切である。」と門弟に言い聞かせ、流派の茶風を守った。

平成27年に、家元を長男紹由に譲り、穆室(ぼくしつ)を名乗った。平成30年没。82才。

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